Story

ひとりぼっちのジョーカー冬野 小夜

ひとりぼっちのジョーカー

幸運にも、いや、やはりこんなのは不幸なのだろうか。おそらく世間一般と比べ、私は結婚についてそれほど焦りを感じていない。二十代後半を過ぎ、三十代も終わりが見えても、残念ながらさして変わらない。

そんな私でも、独身であることに傷つき、とても悩んだことがある。あまりに悲しく、理不尽だと憤った。祖母のお葬式でのことだ。

祖母といっても実際には祖父の姉だが、実の祖母同様かそれ以上に私を可愛がってくれ、とてもお世話になった。そんな大切な人が亡くなっただけでも大きなダメージを受けていた私は、準備が整った会場でひどく打ちのめされた。

私の席がない。

前から順に、実の娘や孫たち。私の両親。それから、妹夫婦。小さな式だったから、親族用の少し立派なそれらしい椅子は全てもう埋まっていた。

「すみません。おひとりはこちらで。」

差し出されたパイプ椅子を見た私は、怖い顔をしていたのだと思う。スタッフの男性は、しきりにぺこぺこと頭を下げてくれたが、私の怒りはなかなか冷めてはくれなかった。

あんまりだ。妹の夫なんて、祖母に一度くらい顔を見せたことがあっただろうか?もしかしたら、結婚前に一度くらい挨拶に来たかもしれないけれど。関わりがあったのなんて、それくらいだというのに。何にせよ、私の方がずっと「関係者」に違いなかった。

「遅くなるから、もう行きなさい。」老人ホームのベッドで、言葉と裏腹にしばらく私の手をぎゅっと握って離さず、やさしく微笑んでいた祖母の顔を思い出す。

それなのに、この差は何だろう。ただ二人組だというだけで、二列に並べられた椅子に座ることができて。かたや、おひとりさまは明らかに間に合わせで用意された一人だけ違うパイプ椅子に座っている。それも、祖母と縁遠かったはずの人たちよりもずっと後ろで、ぽつんと。この出来事は、ひとりであるということがどういうことか、考えるきっかけになった。

改めて意識してみると、「おひとりさま」という言葉が浸透してしばらくたった今も、決して「おひとりさまフリー」ではないことが分かる。様々な生き方があり、独身ライフを楽しむ傾向が生まれても、この世界はおひとりさまには厳しい。

疲れたから晩ご飯はレトルトでいいやと思っても大抵は二人前だ。スーパーでは二個セットのケーキが売られ、ジムの会員募集ではペア割なんてものがあったりする。まったく、人はどうしてこうもペアを作りたがるのだろう。こうして世界中でペアを作り続けていれば、一人くらい余ってしまったりしないだろうか。

トランプだって、神経衰弱ならいい。たとえ時間がかかっても、絶対に相手がいるから。でも、もし世界がババ抜きだったら?こうしている間にも他のカードはどんどんペアになって、気がついたら“ジョーカー”みたいにひとり取り残されていたりして。馬鹿な発想だが、笑えない。

一気に孤独感に襲われ、「おひとりさま」をネットで検索すると、いろんなおひとりさまたちを見つけることができた。ひとりを楽しんでいる人。私と同じように不安を抱えている人。ひとりを満喫できる日もあれば、心細くて怖くてたまらない日だってある。それでもみんな懸命に日々の生活をこなしていた。

仲間がいる。もちろん、ひとりでいる理由や背景は人それぞれだ。ジョーカーなどという呼び名はあまりに失礼かもしれない。それでも、私は励まされた。誰かや何かとペアを作れなくたって、こんなに輝いている人も、がんばっている人だってたくさんいる。

ちょっとだけ、自分がひとりぼっちのジョーカーであることを誇らしく思えた。