結婚目前に気づいた違和感ポリポリムーン
遠距離恋愛をしていた彼と、結婚を前提に一緒に住むことになった。実家から新幹線とローカル線を乗り継ぎ、半日かけて辿り着く小さな港町。そこが彼の住む町だ。何度か彼を訪ねに来たことがあったので顔見知りも多い。やっと来たんだね!と歓迎してくれる人もいる。
でもなんだろう。いざここが永住の地になるかもしれないと思うと、これまで自分が過ごしてきた町と比べてしまう。海が近いのはうれしい。でも、湿り気のある重い空気。聞きなれない方言。町を歩けば誰かしらに出会う距離感。海がそばにあるコンパクトな町、を好んで来たはずだったんだけどな。
新しいアパートは小綺麗で住み心地が良さそうだ。だけど、新生活を始めてすぐに違和感が襲ってきた。「私はこれからずっとこの町で生きていくの?」
大きな暗い箱に閉じ込められたような気分だった。ひとり台所の隅でしゃがみ込み目から涙が溢れてきた。彼も、この町も、何一つ悪くない。私が私の本音から目を逸らしていたのだ。どこかでその事に気付いていたけど、彼との結婚が正しい道だと思い込み無視をしていた。
彼との結婚を意識した理由は「不慮の事故で母と兄弟を亡くした彼と彼のお義父さんのために、新しい家族を作りたい」「年老いた私の母のために、孫を早く見せたい」「きっと私が結婚すれば、彼と彼の家族も、私の家族も幸せになる」。そこには「彼が好きだから一緒にいたい」という思いも、「私自身が結婚をしたいんだ」という決意もなかった。
その事実に気づき、慌てて友人や家族に相談をしても、自分の口から出る言葉は強がったり着飾ったものばかり。「結婚について改めて考えてみたら自分の意思はなかった」なんて言えなかった。
しかも「母は孫の顔を見たいだろう」と思っていたが、それは私の思い込みであった。母は特に孫を強く望んでいないと言う。私さえ幸せに暮らしていればいいと。「親は孫の顔を見たいもの」という社会の空気に惑わされて独り相撲していたようだ。
頭の中はこんがらがり、すがる思いでカウンセラーの元へ向かった。「海外では自分を客観視する為のツールとして利用されているのだから、決して特別なことじゃない」と自分に言い聞かせて。話をするうちに、プロによって絡まっていた紐があれよあれよと解かれていった。なんだ。意外と簡単に解けるものなんだな。
自分で処理しきれない感情に襲われたときに、友人や家族に本音を言えなくてもいいんだ。赤の他人を頼りにすることもできるんだ。
それからまもなくして彼とはお別れし、私は今、自分の意思で海外で暮らしている。環境が変わっても私は変わらなくて、相手の感情を勘違いしたり、自分よがりで行動したり、相変わらず独り相撲しがちだ。
この原稿を書きながらオーストラリア人のシェアメイトが大音量でロックミュージックをかけてシャワーを浴びる音が聞こえる。正直うるさい。けど自分のそばに人の存在を感じられることで救われているのも確かだ。
私はひとりだけど、これからも赤の他人に救われながら生きていくのだと思う。
それは自分から求めることもあるし、日常の中で救われることもある。私も出来る限り他人に手を差し伸べていきたい。今はそんな人との関わり方がちょうどいい。